五月人形の基礎知識

2008年12月19日 (金)

雛人形と五月人形(その4)

明治時代になり、新政府により五節句の廃止が発令されると、ひな祭り同様に端午の節句も急速に衰えてゆきました。

しかし、ひな祭りがそうであったように、端午の節句も次第に活気を取り戻してゆきます。

1704_3 その様子を、明治時代中期の生活風俗を記録した『東京風俗志』(平出鏗二郎 著)は次のように記しています。

五月五日の菖蒲節供も、維新の後 頓(とみ)に廃れしを、近年漸を追うて興れり。家々にて男の子あるは冑人形(かぶとにんぎょう)、座敷幟(ざしきのぼり)を陳(つら)ねて飾る。冑人形は一に五月人形ともいいて、一人立には、神武天皇、日本武尊(やまとたけるのみこと)、源頼義、八幡太郎義家、源義経、加藤清正、関羽、鍾馗等、二人立には神功皇后と武内宿禰(たけのうちのすくね)、山姥(やまんば)と金時、牛若と弁慶など多し。

                                              ※ 明治時代の「菖蒲太刀(しょうぶだち)」(吉徳これくしょん)
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平成の現代でも、五月人形は多くの人たちに愛し続けられています。

そして、兜や鎧と人気を二分する五月人形は、ひと昔前に比べて優しいわらべ顔のものが主流になってきました。この傾向は、五月人形も雛人形と同じように、女性好みの平和的なものになってきたことを反映しているようです。

2008年12月18日 (木)

雛人形と五月人形(その3)

江戸時代になると、端午の節句は武家を中心に益々盛んになり、菖蒲兜(しょうぶかぶと)と呼ぶ模造の飾り兜や薙刀(なぎなた)・毛槍(けやり)などの武具類、そして幟(のぼり)などを人目に触れる野外に数多く立てるようになります。
そして、民間でもそれをまね、甲冑(かっちゅう)を着せ太刀(たち)を持たせた兜人形や馬などを盛んに屋外に立てるようになります。

Img_sekku03_3江戸時代の中期には、端午の節句の飾りは室内にも行なわれるようになり、演劇に取題した当時はやりの武者人形が多く登場します。
また、この頃から、町家では武者絵幟(むしゃえ
※錦絵『江戸砂子年中行事』端午之図 楊州周延 作(吉徳これくしょん)のぼり)や鯉幟(こいのぼり)を立てるようになりました。

江戸時代の後期には、屋外の飾りをやめて、小さく仕立てたものを屋内に飾る座敷飾りが中心になります。
節句の飾りが室内中心になると、甲冑(かっちゅう:具足)飾りよりも見栄えのする人形類が中心となり、その種類も次第に増えてゆきました。

当時、盛んに飾られた五月人形には、神功皇后と武内宿禰(たけのうちのすくね)、源義光(みなもとのよしみつ)と金時、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)、牛若丸と弁慶、加藤清正、関羽、鍾馗(しょうき)などがあります。

また、この頃から端午の節句は男の子の誕生を祝う行事となり、奥まった座敷に五月人形を飾り、その後方には枠台に幟(のぼり)や槍(やり)などを立て、そこに粽(ちまき)を添えて祝いました。

2008年12月16日 (火)

雛人形と五月人形(その2)

Hanash11_2 端午の節句は中国から伝わった行事ですが、古代中国では、この日に野に出て薬草を摘(つ)む風習がありました。
そして、蓬(よもぎ)で作った人形や、菖蒲(しょうぶ)で編んだ薬玉(くすだま)を軒先に飾り、菖蒲酒(しょうぶざけ)を飲むなどして、身の穢(けが)れを祓(はら)いました。


Sitagasane_3日本にもこの風習が伝わり、宮中でも奈良時代には、端午の節句に野山に薬草を摘みにゆく行事が行なわれるようになります。

梅雨時は体調を崩しやすい時期であり、強い香気を持つ蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)の葉は魔を祓(はら)い清める力があると信じられていたことから、屋根に葺(ふ)いたり、髪や冠に挿(さ)して用いました。


※ 平安時代の公卿装束(くげしょうぞく)。冠には藤の花を挿(さ)しています。
「紫式部日記 束帯」より (『重修 装束図解 服制通史』関根正直 著)


このように特に農事と深く結びつき、梅雨時の祓(はら)いの行事として始まった端午の節句は、鎌倉時代の武家社会の世の中になると大きく変容を遂げ、「菖蒲(しょうぶ)」が「尚武(しょうぶ)」に通じるという縁起から、武士が流鏑馬(やぶさめ)などを行なう勇壮な行事となります。

そして、室町時代には兜人形なども作られて、端午の節句は男子の強健な成長を祈る行事として発展してゆくことになります。

江戸時代になると、五月人形雛人形と同様に広く庶民の間にも広まり、さまざまな五月人形が作られるようになります。

2008年12月15日 (月)

雛人形と五月人形(その1)

五月人形雛人形と同様に節句に飾る人形ではありますが、両者は全く違った環境の下で発達を遂げてきました。

雛人形は、長い歴史の中で主に公卿(くげ)社会を中心に引き継がれてきたのに対し、五月人形を受け継いできたのは武家社会です。

それは鎌倉時代の武家社会の成立以降、男の子の強健な成長を祈る対象として、武具を中心に飾られるようになり、その伝統が今日まで続いています。

日本の伝統行事の中で、この端午の節句ほど本来の意味合いから大きく外れて発展してきたものはありません。

Eyes0058_2もともと端午の節句は、田植えに先立ち、田の神に豊穣(ほうじょう)を祈る行事として行なわれていました。

旧暦の五月は、梅雨(つゆ)真っ盛りの時期に当たります。そしてこの月は、稲の若苗を田に植える大切な農事が行なわれる季節でもあります。

豊穣(ほうじょう)をもたらす田の神を迎えるために、早乙女が巫女(みこ)となり、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)で葺(ふ)いた屋根の下、敷き詰めた香りの高い草の上で一晩を過ごし、翌日の田植えに備えて身を清めました。

端午の節句とは、このように本来は女性が中心の行事だったのです。

2008年10月26日 (日)

端午の節句(五月人形)の歴史(その2)

端午の節句の意味合いは、時代と共に少しずつ変化をしていますが、現代では、子供の健やかな成長を祝うお祭りとしてすっかり定着しています。

端午の節句は、もともとは中国の古い風習が日本に伝わったものです。その風習が、日本で古くから行なわれていた厄災を祓(はら)うための行事と融合し、奈良時代には宮中の正式な行事(節会)として位置づけられました。

Yabusame_a03320 平安時代には、宮廷ではこの節会(せちえ)に、邪気を祓(はら)う儀式として騎射(うまゆみ:走る馬から的に向けて矢を射る儀式)が行なわれるようになります。

鎌倉時代の武家政治の世の中になると、朝廷の端午の節会の儀式は廃(すた)れます。しかし、武家社会では、尚武(しょうぶ)の気風が強く、尚武と菖蒲(しょうぶ)をかけて、尚武の節日として祝うようになります。

そして、菖蒲や蓬(よもぎ)を屋根や軒下に吊るし、野外には甲冑(かっちゅう)や刀、槍(やり)などの武具や幟(のぼり)を飾りました。

また、菖蒲酒や菖蒲湯の風習もこの頃から始まりました。

こうして鎌倉時代に、現代の端午の節句の飾り物の原型ができ上がったという訳です。

※流鏑馬の画像提供 PhotoMiyazaki宮崎観光写真

2008年10月25日 (土)

端午の節句(五月人形)の歴史(その1)

今では「こどもの日」となった5月5日。でも、本来この日は、「端午の節句」といい、男の子の健やかな成長を願う日です。

端午の節句は、もともとは中国の古い風習が日本に入ってきたものです。中国では、今でも陰暦の5月5日が「端午節」という祭日になっていて、皆で粽(ちまき)を食べ、菖蒲酒を飲み、そして、ドラゴンボート・レースに興じます。

端午の節句の歴史は古く、奈良時代(約1250年前)から始まります。

Image_2五月は、田植えの関係から、古来より非常に重要な月とされていました。そのため日本には、「五月初めの午(うま)の日に、蓬(よもぎ)で作った人形や特別な力があると信じられていた菖蒲(しょうぶ)を家の門口にぶら下げて、邪気を祓(はら)う」という風習だけが、中国から伝わりました。

2008年10月21日 (火)

なぜ五月人形を飾るのでしょうか?(日本人形協会の統一見解)

それでは同様に、五月人形について日本人形協会の見解を見てみましょう。 

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                                                 なぜ五月人形を飾るのでしょうか?

長い武家社会の中で、鎧(よろい)兜(かぶと)は男子にとって非常に大切なものでした。戦いの身体防護として鎧・兜は身を守るという大切な役目を持っていました。今日では、その精神を大事にし、鎧・兜が、“身体を守る”ものという意味が重視され、交通事故や病気から大切な子供を守ってくれるようにという願いを込め五月人形として飾られています。

                                                              男の子の誕生を祝い、無事に成長して、強く、立派な男子となるようにとのご家庭の願いがあります。つまり、鎧、兜が身を守って、その子の災(わざわ)いがふりかかりませんように、受験・就職・結婚など、人生の幸福に恵まれますようにという思いが込められているのです。