雛人形の基礎知識

2008年11月20日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その16)

平成時代になり、平安貴族の子供たちが“ひいな遊び”を楽しんだ時代より1000年以上が過ぎた現代でも、雛人形は今だに多くの人々に愛し続けられています。

人形・玩具研究の第一人者であった故 斎藤良輔先生は、その著書『ひな人形』(法政大学出版局)の中で、“現代の雛”を以下のように記しています。

多様化されている現代雛にも、共通した心理的底流がある。
それは、愛するわが子の「安泰をねがう」祈りがそこにこめられている、ということである。平安の遠い昔から、日本民族が心に抱いてきたものが、いまなお現代雛に投影し、生きつづけている。ドライな現代の風潮のなかで、これらの人形だけが“おひなさま”と昔ながらの敬称で呼ばれているあたりには、祈りという潜在心理の根の深さが感じられる。その意味で、日本のは、10世紀以上の長い流れのなかで、さまざまな移り変わりを経験しながら、いつも古くて、そして新しい生命を宿しているものなのである。

_dsc9476ふらここは、雛人形とは日本人の美しい心そのものだと考えています。そして、これからも、いつまでもいつまでも大切に守り続けてゆきたいと心から願っています。

2008年11月19日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その15)

長い歴史の中で、雛人形は天皇を象徴したものとは限らず、一般には公卿(くげ)社会の男女を表し、また江戸時代には武家社会の男女を表したものも登場しました。
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それが昭和時代に入ると、雛人形は意識的に皇室をかたどったものとして扱われるようになります。

そのようなことも、昭和6(1931)年に勃発した満州事変をかわきりに、やがて昭和16(1941)年には大東亜戦争へ突入してゆく軍国主義台頭の前兆であったのでしょうか?

大東亜戦争下の日本では、もはやひな祭りをする余裕はどこにもありませんでした。
※ 広島平和記念資料館

しかし、昭和20(1945)年に長い戦争が終わり、昭和25(1950)年の朝鮮戦争による特需景気、そして昭和30(1955)年の神武景気へと戦後景気の回復に並行して、再び雛人形の人気が復活するのにそれほどの時間はかかりませんでした。

更に“昭和元禄”の新語が登場した昭和42(1967)年前後には、高度経済成長の波に乗って雛人形はますます豪華になってゆきます。

2008年11月18日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その14)

昭和時代に入ると、雛人形の飾り方に大きな変化が生じました。

それまでは男雛を向かって右、女雛を向かって左に飾っていたものが、東京では男雛と女雛の位置を反対に飾るようになります。

これは昭和3(1928)年11月10日に、天皇陛下の即位の大礼を紫宸殿で挙行の際、天皇の高御座(たかみくら)が中央に置かれ、皇后席はその向かって右のやや後ろに据えられたのを参考にしたといわれています。

明治、大正、昭和の三代の即位式の中で、天皇と皇后おそろいの儀典はこれが初めてであり、東京の雛人形業界では、この「即位御大典」の位置を参考にして、改めて男雛と女雛の位置を決定しました。

しかし、この飾り方は当時かなりの物議をかもし、しばしば「左右問題」をめぐる議論が繰り返されました。特に京都を中心にした関西地方では、古くからの飾り方を正しいとして激しく反論しました。

東と西で二つに分かれたこの飾り方も、雛人形販売の主な拠点であった百貨店が東京方式を採用したことから、やがて男雛を向かって左、女雛を向かって右に置く飾り方が一般に普及し、大勢を占めるようになりました。
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ちなみに宮内庁の話では、「現在は公式の席でも非公式の席でも天皇陛下が向かって左、皇后様が右です」とのことです。


『昭和天皇と香淳皇后』昭和50(1975)年撮影

2008年11月17日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その13)

江戸時代には京都や大阪と江戸では、雛段の飾り方が異なっていたことは前にも触れました。

これが、江戸時代の末期頃からは、江戸でも京都形式の官女や随身を取り入れ、これに江戸独特の五人囃子を加えた飾り方が一般的となります。
また調度類も、公卿(くげ)風なものに江戸の武家や町家風の諸道具を付け加えた、現在の形式が次第に広まってゆきました。

01 現在では、内裏雛を最上段に飾り、左右に雪洞(ぼんぼり)を置き、背後に屏風を立てます。また、内裏雛の中央前に三方(さんぼう)に徳利を乗せて供えます。
次段は三人官女(中央が坐り姿で盃を持ち、向かって右は長柄、左は銚子を持つ立ち姿)です。
三段目は、五人囃子(能の囃子方と同じ位置で、向かって右から扇を持って謡う者、次が笛、中央が小鼓、次が大鼓、左端が太鼓)です。
四段目は、随身(ずいしん)を左右(左大臣を向かって右、右大臣を向かって左)に置き、その中央に御膳を供えます。
その次の段には向かって左に橘(たちばな)、向かって右に桜を飾り、その間に仕丁(衛士ともいい、向かって右から立傘、中央が沓台、左側が台笠)を並べます。
そして、その下段には調度を並べ、最下段には駕籠(かご)や御所車などの乗り物を飾ります。

この飾り方は、大正12(1923)年に起きた関東大震災の後、百貨店が雛人形と調度を組み合わせて売り出したことが始まりですが、今日ではすっかりお決まりの物として定着しています。

2008年11月16日 (日)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その12)

明治時代になり、“文明開化”を唱えて社会の近代化が進められる中で、明治5(1872)年に新暦(太陽暦)が実施され、それの伴って五節句の廃止が発令されると、ひな祭り端午の節句の行事は急速に衰えてゆきました。

R03423_2 しかし、庶民の節句に対する関心が簡単に消え失せることはなく、明治10(1877)年に国内産業を興隆させる目的で第1回内国勧業博覧会が東京で開催されると、再び節句人形の製作が活気を取り戻してゆきます。

また、日清戦争(1894~95年)、日露戦争(1904~05年)の2度の大戦によりナショナリズムが高まると、ひな祭りの行事は、明治天皇が国民教育の基本理念を明示するために下した「教育勅語」に基づく国民的な行事であるとして、ますます盛んに行なわれるようになりました。

※ 「明治時代の雛人形」(『風俗画報』69号より)

そして、その繁栄ぶりに更に拍車をかけたのが、明治末期の百貨店の出現でした。
まず明治40年に三越呉服店がデパートメント・ストアの組織を整えると、これに次いで白木屋、松屋、松坂屋などの大呉服店が続々と同様の営業法に改めました。

これらの百貨店が互いに競い合って、正札販売や商品宣伝運動などの近代的な商法で、高級感あふれる斬新な雛人形を次々と創作し大々的に売り出すようになると、雛人形はもはや古臭い因習のシンボルではなく、新しい時代を反映するファッショナブルな商品へと変貌(へんぼう)を遂げてゆきます。

【注】五節句・・・人日(じんじつ):1月7日 七草の節句、上巳(じょうみ):3月3日 桃の節句・ひな祭り、端午(たんご):5月5日 菖蒲の節句、七夕(たなばた):7月7日 星祭、重陽(ちょうよう):9月9日 菊の節句

2008年11月14日 (金)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その11)

『次郎左衛門雛』と前後して現れた代表的な江戸雛に『古今雛』があります。
この雛人形は、明和年間(1764~72年)に上野池之端の雛人形問屋が日本橋十軒店の人形師  原 舟月に作らせた江戸生え抜きの雛人形です。

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『古今雛』の顔は『有職雛』を原型とし、写実的で精巧に作られ、両目に玻璃玉(はりだま:ガラス)や水晶をはめ込んだ作品もありました。

衣裳には、金糸や色糸などで鳳凰(ほうおう)、薬玉(くすだま)などの縫紋(ぬいもん)を加工し、袖には紅綸子(べにりんず)を用いて華麗な彩色に仕立てました。

※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

こうした近代的な容貌(ようぼう)と美しい装束が人気を呼び、それまで王座を占めていた『次郎左衛門雛』に代わり、江戸のみならず京都や大阪でも大流行しました。

また、当時は上方と江戸との間で盛んに雛商いの交流があったので、原 舟月が彫った顔の仕上げを京都の職人に依頼するなど、専門分野ごとの分業による雛人形の製作が行なわれていました。

そして、これ以降の雛人形は、ほとんどが『古今雛』にならって作られるようになり、この型を踏襲して今日に至っています。

2008年11月13日 (木)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その10)

『次郎左衛門雛』が江戸に定着した宝暦年間(1751~63年)に、京都では新しい雛人形が生まれました。有職故実(ゆうそくこじつ)に基づいて、公卿(くげ)の衣裳を正しく雛人形化したもので、明治以降に『有職雛』と呼ばれるようになった雛人形です。

Syusoku_2 宮中に仕えて公式装束などの調整を掌(つかさど)っていた公卿の高倉家と山科家が調進したことから、当時は『高倉雛』や『山科雛』の名前で呼ばれていました。


※ 山形県鶴岡市「致道博物館」所蔵
(画像提供 /  庄内観光コンベンション協会

衣冠(いかん)姿、あるいは直衣(のうし)姿の雛人形が多く、特に後者の場合は着替え用として男雛には「束帯(そくたい)」、女雛には「十二単(じゅうにひとえ)」を添え、思い思いに着せ替えを楽しみました。


【注1】衣冠(いかん)・・・「衣冠」とは、「束帯(そくたい)」の略装として広く参内(さんだい)に用いられた装束です。「束帯」が「燕尾服」に相当するとすれば、「衣冠」は「モーニングコート」に当たる公服で、自家の大儀である祭典や婚礼などに用いられました。

【注2】直衣(のうし)・・・「直衣」とは、平安時代のエリート貴族の平常服です。一般の公卿が誰でも着られる服ではなく、天皇の信任が篤(あつ)い人、あるいは身分の高い人に限り、天皇の宣旨(せんじ)を賜って初めて宮中への出仕に着られる服です。『源氏物語』には、直衣姿の光源氏が描かれています。

2008年11月12日 (水)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その9)

江戸時代初期、いわゆる元禄期(1688~1703年)以前には雛段はあまり用いられず、毛氈(もうせん)の上に内裏雛だけを飾り、調度類も少なく、菱餅や白酒を供える程度の飾りでした。

江戸時代中期になり、雛市が盛んになるにつれ、雛段に雛人形を飾るようになり、調度類も賑やかになります。

雛段の数も、宝暦~明和年間(1751~71年)には二、三段であったものが、安永期(1772~81年)の頃は四、五段のものも現れ、それが江戸末期には七、八段物まで見られるようになります。

雛段の飾り方は、京都や大阪では御殿を飾り、その中に内裏雛を入れ、官女、随身、仕丁(衛士)、桜橘、調度類に燭台、そして市松人形などを飾りました。
また江戸では、御殿の代わりに屏風を立てて内裏雛を飾り、江戸独特の五人囃子、武家の嫁入り道具を模した調度類、そして雪洞(ぼんぼり)と桃の花を飾りました。

1000003643_9900021_2 江戸時代中期に流行した人形に、元文~寛保年間(1736~44年)に人気を博した京都四条の若衆形人気俳優、佐野川市松に模して作られた市松人形があります。

また、この頃から、最初は女子の誕生祝とは関係がなかったひな祭りが、女子の初節句を祝う行事となり、雛人形の贈答も盛んに行われるようになります。

『佐野川市松の祇園町白人おなよ図』東州斎写楽
(版画『寛政六年五月興行江戸三座役者似顔絵』より)

※画像提供 / 文化庁

2008年11月11日 (火)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その8)

京都で有名な人形師であった雛屋次郎左衛門が、宝暦11(1761)年に江戸に下り、日本橋室町二丁目に店を開くと、雛屋次郎左衛門が創始した『次郎左衛門雛』が、『享保雛』に代わって次第に江戸の人気を独占するようになります。

もともと京雛であった『次郎左衛門雛』は、江戸の地にすっかり根を下ろし、その人気は宝暦に続き、明和、安永、天明、寛政年間まで約30余年間に及び、上下階級に広く親しまれました。

1170170442_4 『次郎左衛門雛』の特徴は、丸顔に引目鉤鼻(ひきめかぎばな)。愛らしい丸い顔に切れ長の目と小さな鉤鼻(かぎばな)。そして、ちょこんと紅を置いた小さな口元は、それまでの面長の顔と違い、庶民に親しさを与えました。

男雛の衣裳は、黒袍(くろのほう)に袴(はかま)をつけた公卿(くげ)の束帯(そくたい)姿。女雛は、五つ衣(いつつぎぬ)、唐衣(からぎぬ)に裳(も)の装束です。

江戸の庶民に愛され、いくつもの川柳に詠まれたこの雛人形は、与謝 蕪村(よさの ぶそん:1716~84年)の句にも次のように詠まれています。

たらちねのつまゝずありや雛の鼻

※ 画像提供 / 成巽閣

2008年11月10日 (月)

ひな祭り(雛人形)の歴史(その7)

雛人形が町人社会にまで広く流通するようになった元禄~享保(1688~1736年)の頃、一定期間に、許された場所で、雛人形を販売する「雛市」がたつようになります。
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「雛市」とは、道の中央に仮店を設けて、本来の両サイドの店と合わせて3列あるいは4列に並んだ店で雛人形を売る形式で、現在では東京・浅草観音境内の「仲見世」にその名残を留めています。 
※『十軒店の雛市』(『江戸名所図会』より)

Ph07_01享保年間(1716~36年)には、既に100万都市にまで成長していた江戸では、十軒店(じゅっけんだな:東京都中央区日本橋室町3丁目付近)を中心に、浅草茅町(あさくさかやちょう:東京都台東区浅草橋)や人形町など各地に雛市がたち、どこでも大変な賑わいを見せていました。

※『十軒店跡』の碑
ふらここもここ日本橋で生まれました!


元禄2(1689)年3月、松尾芭蕉がみちのくの旅に出発する際に詠んだ句に、雛人形が当時の庶民の生活に浸透している様子が窺(うかが)われます。

草の戸も住替る代ぞひなの家(『奥の細道』)