雛人形よもやま話

2009年2月25日 (水)

大里 彩さんのこと(その2)

昨日は一日、大里 彩さんの工房にお邪魔してきました。

大里さんの工房で働くスタッフは、全員女性。大里さんの陣頭指揮の下、皆さん真剣に人形制作に取り組んでいました。
やはり女性のパワーはすごいですね!

大里さんは、独特の感性で個性的な雛人形五月人形を次々と創り出し、エネルギッシュに活動を展開している女流人形作家です。そんな大里さんが創りだす作品は、女性ならではの繊細で温かみのある素敵な作品ばかり。

2009_02240004そして、もう一つ大里さんの素晴らしい点は、人形制作に関するあらゆる技法を数値化していること。

人形の制作は手づくりゆえに、どうしても職人たちの勘や見当で仕事を進めてしまいがち。そのために、どうしても品質にばらつきが生じてしまうのが悩みの種です。
それに対して大里さんは、長年の試行錯誤の中から一つひとつの作業工程を数値化して、誰でも同じ品質の作品を作れるように取り組んできたそうです。

大里さんいわく、“スタッフ全員が、誰でも同じ品質の作品を作れるようになれば、私はもっと高度な仕事に取り組めるようになる!”
ん~、奥の深い一言一言が本当に良い勉強になりました。

私も彼女に負けないように、素敵なふらここ雛人形五月人形を制作しようと、心を新たにした一日でした。

2009年2月23日 (月)

大里 彩さんのこと(その1)

以前に「木目込み雛人形選びのワンポイントアドバイス」として、代表的な老舗(しにせ)木目込み人形工房をご紹介いたしました。

これらの老舗(しにせ)木目込み人形工房も2世、3世と代を重ね、若者たちの活躍の場も広がってきています。
そのような中で、従来の慣習にとらわれず、新しい雛人形五月人形を制作しようとする若い制作者たちの活動が始まっています。

新しい試みといっても、古くから続く伝統行事を基盤として、上手に“不易流行”を創り出してゆかなければならない訳ですから、なかなか難しい仕事です。
それでも日々、試行錯誤を繰り返しながら、新しい取り組みを行なっている制作者のひとりに「大里 彩(おおさと あや)さん」がいます。

彼女は私よりもちょっと年上ですが、私とはとても仲良しで、人形制作についてよく話をします。
大里さんは本当に研究熱心で、私も教わることがとても多いのですが、大里さんと話をしいると、彼女が本当に誠実で前向きで、とても熱いものをもっていることを感じます。

51zbw8usnil__ss400_もうすぐひな祭り。雛人形の販売もようやく一段落しましたが、続く五月人形の販売もそれぞれの制作者が個性的な作品を準備していることでしょう。

ふらここ工房も皆様にご満足いただくことができますように、個性的な作品を豊富に揃えてお待ちしております。

五月人形も引き続き、ふらここをどうぞ宜しくご愛顧賜りますようお願い致します。
※大里 彩 作 五人飾『さくら』

2008年12月12日 (金)

「桃の節句」に深い祈りを込めて!

ひな祭りは、「桃の節句」とも呼ばれ、旧暦のひな祭りの頃はちょうど桃の開花の季節です。

Momo0017_2桃の原産地は中国ですが、日本には3000年以上も前に伝わった、とてもなじみの深い樹木です。

中国では、桃の実は仙果と呼ばれ、邪気を祓(はら)い不老長寿をもたらす仙人の果実として珍重されてきました。 20080426080920_2 そして、祝いごとには桃の実をかたどった「壽桃(ショウタオ)」と呼ばれる饅頭(まんじゅう)を食べる習慣があり、日本でも桃饅頭の名で知られています。

そして日本でも古くから、桃には邪気を祓(はら)う特別な力があると信じられてきました。

『古事記』の中には、伊邪那美尊(いざなみのみこと)に会うために黄泉(よみ)の国に行った伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が、桃の実を投げて難を逃れる神話が登場します。

また『桃太郎』は、桃から生まれた男の子が、成長して鬼を退治する有名なお伽噺(おとぎばなし)です。

ひな祭りとは、季節の変わり目にやってくる邪気を祓(はら)い、新しい季節を晴れやかに迎える儀式。桃の花には、子供の厄(やく)を祓(はら)い、健やかな成長を願う、深い祈りが込められています。

そして雛人形を飾り、家族揃って子供の健やかな成長を祝います。

2008年12月11日 (木)

『うれしいひな祭り』を楽しむ!

ひな祭りを題材にした歌は幾つかありますが、その中で最もよく知られた歌は、やはり『うれしいひな祭り』でしょう。

この歌は、昭和11年に河村光陽さんの作曲、山野三郎さん(サトウハチローのペンネーム)の作詞で作られました。

河村光陽さんは、明治30年に福岡県に生まれた童謡作曲家ですが、『かもめの水兵さん』や『グッドバイ』など千余曲の名作を残しました。

サトウハチローさんは、明治36年に、人気少年小説作家であった佐藤紅緑の長男として東京に生まれた詩人ですが、その破天荒な人生は、異母妹である佐藤愛子の著書『血脈』(文芸春秋刊)に克明に描かれています。

この『うれしいひな祭り』は、最初の夫人と離婚して、引き取った3人の子供たち(娘2人、息子1人)のために書いた詩だといわれています。

母親のいない子供たちの寂しさを慰めるために、豪華な雛人形を買って帰ったサトウハチローは、飾り方が分からずに一晩かけて雛人形を飾ったそうです。

そんなこともあってか、この曲にはどこか物悲しさが漂います。

それでは、最後に『うれしいひな祭り』のJAZZバージョンをお楽しみください。

 〉〉284ohinamaturi.midをダウンロード     ※ Music by Gallery Oto

51mhs5zmw3l__sl100__3血脈 (上) (文春文庫)

血脈 (中) (文春文庫)

血脈 (下) (文春文庫)

2008年12月 9日 (火)

雛人形のお顔の不思議?

雛人形の顔には「位星(くらいぼし)」というものを描きます。眉の上に、薄墨でもう一つ眉のようなものを描く化粧法です。

この「位星」は、人形師によって描き方が異なります。

Pic_face_isho_2ひとつは、通常の眉を描いた上に、更に「位星」を書き入れる描き方。
これは、衣裳着雛人形のお顔に多く用いられる描き方です。




Pic_face_mokume_2 もう一つは、通常の眉を描かずに、「位星」のみを描くもの。
木目込み雛人形のお顔には、この描き方が多く見られます。




さて、本当はどちらの描き方が正しいのでしょうか?

そもそも「位星」を辞書で引いても、この用語では探すことができません。
但し、各地の祭礼に登場する稚児行列の子供たちの額には、この「位星」が描かれますから、何か由緒ある化粧法なのでしょう。

また、歌舞伎にも、公卿(くげ)や身分の高い人の化粧法として、この「位星」が用いられます。
有名な演目では、『鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)』に登場する「一条大蔵卿(いちじょうおおくらきょう)」や「常磐御前(ときわごぜん)」。
『六歌仙容彩(ろっかせんすがたのいろどり)』の「在原業平(ありわらのなりひら)」と「小野小町(おののこまち)」などなど。

公卿や女官など、宮中では、自前の眉は剃り、それより上部に眉を引き直していたそうですが、でも何故か『源氏物語』には、それらしい記述が出てきません。

どなたかご存知の方がいらしたら、是非お教え戴ければ誠に幸いに存じます。

2008年12月 4日 (木)

雛形と雛人形(その2)

ひいな遊びを楽しんだ平安時代の昔から、人形は単なる玩具ではなく、楽しみながら日常生活のあれこれを学ぶ教育的な側面がありました。

江戸時代になると、有職故実にならった雛人形が作られるようになり、雛道具も貴族の婚礼調度をそっくり模したものが整えられるようになります。

それゆえ、大名家や旧家に伝えられている雛人形を見ると、江戸時代の婚礼調度や奥向きの日常を知ることができます。

昔から日本の雛形には教材としての側面がありますが、雛人形も雛道具も、娘に対する親心がこめられた教材としての雛形であった訳です。

_dsc4642_7 雛人形が単なる形だけのものではなく、そこに「生命」があるという日本人独特の精神性がなかったならば、雛人形がこれほどまでに長い年月にわたって脈々と受け継がれ、今日まで残ることは決してなかったでしょう。

そして現代では、男女一対の仲睦まじい雛人形の姿に、親はどのような雛形としての想いを込め、また娘はそこからどのような想いを受け止めるのでしょうか。

この混迷した世相の中にあって、私たちはもう一度、雛人形に込められて親から子へと代々受け継がれてきた精神を思い起こす必要があるのかもしれません。

2008年12月 3日 (水)

雛形と雛人形(その1)

「雛形(ひながた)」という言葉があります。実物をかたどって小さく作ったもののことですが、模型やミニチュアが現にあるものを模して小さく再現したのもであるのに対し、雛形とは実物を作る前に制作されるもので、それが基本となるもののことです。

古くから日本の工匠たちは、本物を作る前にまず雛形を作ります。これは日本固有の伝統で、雛形の考え方の中心には、日本人の心があります。

それは、ものには「生命」があり、その「生命」を形にして後世に残そうという発想です。だから、まず雛形をつくり、それから実物を作る。そして、その雛形を後世に引き継ぐことによって、技術や知識と共にものの「生命」を伝達する。

雛形を作る意味には、日本人独特のそのような精神性がその根底にあります。

雛形は、染織、建築、彫刻、工芸の分野に数多く残っています。
最古のものとしては、8世紀に建てられた南都七大寺の一つといわれた元興寺(がんこうじ)と、光明皇后によって建立された海龍王寺の二つの五重塔の雛形が、奈良国立博物館に収蔵されています。
共に本物はすっかり失われていても、雛形のみが残っています。

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小田原城をはじめとする多くの城郭は、緻密な雛形が残されていたからこそ、復元が可能になりました。


※小田原城天守閣


また、師匠が雛形を作り、弟子が実物を制作した代表的な例としては、鎌倉時代の仏師・運慶の作品が有名です。
例えば、京都・三十三間堂に祭られている千一体の千手観音のうち、運慶自体が作ったのは二体だけですが、全てが運慶の作であるといわれています。
つまり、雛形の原作者が全体の制作者であるとして今日に伝えられている訳です。

このように、雛形とは非常に重要なものであり、ものが持っている精神性をなんとか形に残して後世に伝えようとする強い想いが、雛形の制作に現れています。

そして、雛人形と雛道具にも、雛形の持つそうした日本人の精神性が大きく反映しています。

2008年11月28日 (金)

現代の雛人形の系譜(その5)

昭和11(1936)年には、改組第1回帝展において初めて第四部(美術工芸部門)に人形の出品が認められるようになり、鹿児島寿蔵、野口光彦、野口明豊、羽仁春水、平田郷陽、堀柳女の6名が入選を果たします。

こうして公に秩序づけられた美術界の中に処を得たことにより、人形は芸術の一分野として大きく発展を遂げました。

この昭和初期の一連の動向を、後の世の人たちは『人形芸術運動』と呼んでいますが、この運動を通して雛人形にも、芸術性を帯びた鑑賞用としてのあり方が完全に具備されたということができます。

そして、この流れは戦後にも確実に引き継がれ、昭和30(1955)年に文化庁により、歴史的芸術的価値を認めてその存続に資するための「重要無形文化財の指定と保持者の認定」が行なわれた際に、人形の分野からは平田郷陽と堀柳女のふたりが認定を受けました。

9908その後、昭和36(1961)年には、鹿児島寿蔵が認定を受け、更に昭和41(1966)年には、私の祖父である原米洲の創り出した『人形の胡粉仕上の技法』が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として認定されました。

平安時代の“ひいな遊び”から始まった雛人形は、祓(はら)いの道具である「ひとがた」の呪術的(じゅじゅつてき)要素を受け継ぎ、そして昭和の『人形芸術運動』を通して芸術性を具備することにより、世界に誇るべき雛人形として現代に至っています。

2008年11月27日 (木)

現代の雛人形の系譜(その4)

昭和5(1930)年には、山田徳兵衛、西沢笛畝などが中心となり『童宝美術院』が設立されました。そして、「童心を表現し、童心を啓発し得るような芸術作品の向上普及を目的」として公募展が実施されました。

この展覧会は、専門の人形師だけではなく広く一般からも作品を募り、同じ土俵の上で審査を受けた最初の大きな人形展でした。

作品の完成度では、専門家の方がはるかに技術は上ですが、表現の新しさではアマチュアの方が進んでいるというようなことで、この展覧会は人形業界にとっても、アマチュアを人形界に活力を注ぐ新しい動きをしてとらえる絶好の機会となりました。

そして昭和8(1933)年には、人形製作の研究会をもつことの必要性から『日本人形研究会』が設立され、人形師や業界関係者、アマチュア作家、人形愛好家に至るまで、200名以上の人々を交えた研究会が行なわれるようになりました。

この研究会では、東京美術学校(現.東京藝術大学)や東京高等工芸学校(現.千葉大学工学部)を会場に、工芸や彫塑についての講習会、時代装束や着付けなどの風俗研究といった直接製作にかかわるものに加え、美術史や演劇、文学、更には帝展の見方、欧米工芸界の近況に至るまで、さまざまな専門家による講演会が行なわれ、人形師たちの啓蒙が図られました。

4539_2そしてこの研究会は、代々人形づくりを生業としていた人形師たちには、芸術全般の素養に触れる機会として、またアマチュア作家たちにはプロの技術を習得する機会として利用され、人形製作全般の質の向上ばかりではなく、新時代の人形のあり方を模索するために大きな貢献を果たしました。
※ 新しい時代の人形づくりが、ふらここのテーマです。

この研究会は、昭和14(1939)年に戦争で中段を余儀なくされるまで続きましたが、その活動の結果として、それまでの型にはまった伝統的な人形製作とは異なる、新しい材料や表現技法を用いた作品が、数多く見られるようになってゆきます。

2008年11月26日 (水)

現代の雛人形の系譜(その3)

昭和2(1927)年に帝展第四部(美術工芸部門)が開設されたことに刺激を受け、人形を第四部に進出させるべく、人形製作を芸術活動に結びつけるためのさまざまな活動が始まります。

まず昭和3(1928)年に、久保佐四郎、岡本玉水、平田郷陽などの人形師たちが、人形界を主導してゆくべく「白沢会(はくたくかい)」を結成しました。

また、その動きに刺激されて、野口光彦、佐久間珖甫などの人形師たちも「五芸会」を結成して、従来の人形から脱皮するための研究を始めました。

この時期、このように専門の人形師による、新時代の人形研究を目的とした会が次々と結成されてゆきます。

また、このような人形師を中心とする動きとは別に、昭和2(1927)年に童画家の武井武雄を中心とした「イルフトイス」というアマチュア団体が結成され、挿絵の中原淳一、洋風人形の川崎プッペらが集い、人形と玩具の可能性を追求する活動を始めました。

_dsc9635_2更には、同時期に、竹久夢二が彼のサロンに集まった女性たちと「どんたく社」を結成します。ここでは、後に人間国宝となる堀柳女らアマチュアの女性たちが、伝統的な人形表現とは全く異なる自由な発想で、人形に新たな芸術性を求める活動を展開してゆきます。

ふらここは、新しい時代の雛人形を追求してゆきます。

そして、このようなアマチュア作家による人形展が盛んに行なわれるようになると、その精力的な活動に刺激を受け、新しい時代にふさわしい人形を模索していた人形師たちの間では、新しい人形を創り出そうという機運がいよいよ盛り上がってゆきました。